アラフォー男のうつ病闘病記

アラフォー男性のうつ病闘病記です。病気のこと、気になったこと、趣味についていろいろと語っていきたいと思います。おっさんと言っていい年齢の男の復活劇(になるはず)なので、良ければ読んでいってください。

手記 裁判

裁判


2018年9月。


私は休職期間に入っていた。


間違いなくうつ病を発症していたであろう私は、何もかもが面倒になり、今までやっていた趣味も、日常生活にも支障をきたすようになり、寝込む日々が続いた。


そんなさなかの9月某日。


私の電話が鳴る。


父からであった。


拘留中の大輔に面会に行くという。


私も行くことになった。


直会いたくなかった。会ってしまえば感情が爆発しそうだった。


しかし行かないわけにはいかない。


なんとか重い体を起こし、実家近くの警察署へ車を走らせる。


大輔は手錠をはめられ、アクリル板の向こうに座っていた。


目が座っている。常人の顔ではない。


面会は受話器を使って行われ、父、私、宗次のそれぞれが話をすることになった。


あれやこれやと質問するも帰ってくる答えは支離滅裂。自分は悪くないと思っているようであった。


最後に父が聞いた。


「何で殺したんじゃ・・・」


大輔が答える。


「だってしょうがないじゃん!」
信じられない言葉だった。そんな言葉が飛び出してこようとはだれも思っていなかったろう。


全員が激高した。私も頭の中でプツリと理性の線がキレる音がした。


まさかそんな言葉が出てこようとは思いもしなかった。とても許せるものではない。


病気であったとしても我慢の限界だった。


私は詰め寄り、叫んだ。


「ふざけるんじゃねぇぞ!何がしょうがないだ!あぁ?しょうがないで母さん死んだのかよ!おい!」
あまりの事に警察官に制止され、その場は家に帰ることになる。


私は憤然としながら家に帰ったが、それでもやはり体は重く、憂鬱な気分は消えず、床に臥せっていた。


動けない、何もする気が起きない、何をするのも面倒だ・・・
そんな日々が一ヶ月続き、再び私の電話が鳴る。


出てみたら検察からの電話で、聴取をするので出頭するようにとのことだった。


これも、行かないわけにはいかない。


私は動かない体を引きずって、地方検察庁まで赴く。


地方検察庁には、もっと上の検察官がわざわざ出向いてきており、私に質問をした。


検察では、これまでの経緯と、遺族としての感情と、大輔に対してどのような量刑を望むかを聞かれた。


大輔に対する憎しみでいっぱいだった私は
「できうる限りの重い刑罰を希望します!許すつもりは無い!厳罰に処してください!」と言った。


検察官は「わかりました。我々としても無罪にするつもりはありません。有罪にして見せます。」
と静かに、しかし力強く言っていた。


どこか私はほっとしたのを思えている。


それからしばらくして、私は何とか動けるようになっていた。


しかし本調子ではないし、相変わらずいろいろな症状が出ていたが、焦っていた私は、休職期間を利用して転職活動を始めた。


地元に残る決断をした私は、地元専門の転職エージェントを使い、転職活動を開始した。


一度面談に出向く必要があった。県内と言っても広い。

端から端まで移動するくらいの距離の場所だった。私は車を走らせ、2時間かけてエージェントとの面談に赴いた。


そこでは35歳を超えての転職は厳しいものになる事、希望する業種は何かを聞かれた。


私は転職が厳しいのは重々承知だったし、業種をいちいち選んで吟味するほどの心の余裕もなかった。


「何でもいいです。待遇面で満足がいけばどこでも構いません」とエージェントに告げた。


その後、エージェントから紹介された数社ほどの地元企業の面接を受け、零細企業の工務店の正社員として最初に内定をいただいた。


私はもうこれ以上活動する気力が失せていたため、内定が出た時点で打ち切りにした。給与面でもまぁまぁ妥協できる範囲内だった。


1ヶ月程度の活動期間で、私は何とか次の仕事を確保できたことに安堵した。
その後の10月某日、大輔側の弁護士から話をしたいとの連絡があり、弁護士事務所に父、宗次とで赴いた。


弁護士は二人で、それぞれ今後の裁判の方針について我々に理解を求めてきた。有罪になった時のデメリット、無罪になった時のメリットを語り、無罪にする方針を進めてきた。


父と宗次も同じであったろう。


「冗談ではない!有罪にする以外ありえない!」
これが答えだった。


そして11月某日。


ついに私は証人喚問として証言台に立つこととなる。


駆けつけた報道陣の数は前代未聞だったという。


それを避けるように裏口の搬入路から我々は入場した。


厳粛な裁判所の雰囲気、傍聴席にはその場に似つかわしくないラフな格好の中年男性。


「傍聴マニアと言うやつか?」と私は思った。


それに学生と思しき若者が数名。


アメリカ人と思われる少女とその保護者。


少女はガムをくちゃくちゃ言わせていた。それが少し腹が立ったが、裁判長がガムをかむのをやめなさいと注意してくれた。


そして壇上の裁判官、陪審員、そして民間から選ばれた裁判員たち。


身が引き締まる思いだった。


右隅の席に弁護士と大輔もいた。


大輔は目がうつろな状態で、あからさまに様子がおかしい感じであった。


私はじっと大輔を睨みやる。


許さない・・・許さない・・・
その気持ちを思い切りぶつけるのだ・・・
私は思いのたけを証言台で証言した。


「母はまっとうに働いて、厳しい業務もこなしていました。それこそ休む間もなく働いていたのです。そんな中から自分の給与の大半を使って大輔のためにと貯金も作り、大輔のために退院を促しもしました。自分で面倒を見ると言って。常に大輔のことを気にかけていました。それを大輔は無残にも殴りに殴り、挙句に刺殺したのです。許すつもりは無い。許せません。厳罰を望みます。」


正直緊張していたし、感情が高まって何を言ってるのかわからなかった部分もあったかもしれない。だが概ねこのようなことを言った記憶がある。


壇上の民間の裁判員たちの反応はバラバラだった。


嫌々話を聞いているもの、寝ているもの、私の言葉に涙しているもの、色々だった。


裁判員裁判など、それは呼ばれたくはないだろう。

 

私だってそうだ。


だから嫌々聞いているものや寝ている者に対して怒りはわかなかった。


父、宗次もそれぞれ証言し、二人がどのような証言をしたかは聞いていない。その日はそれで解散となった。


そして、忘れもしない。


2018年12月某日。


判決が下る。


事前に弁護士、検察双方と話をした。


検察が言うには有罪は堅いだろうとのことだった。


十中八九、いや9割以上の確率で有罪にできると。


私もそう信じていた。


だが無慈悲にもその期待は打ち砕かれる。


裁判長が言う。
「主文。被告人は無罪とする!」
理由は統合失調症により心神喪失状態であったため、善悪を判断し、行動を制御する能力が失われていた疑いがある。


とのことだった。


我々は愕然とした。


言葉もない。


理解できない。


「では母の死の責任はだれがとってくれるのだ?」
「母は無駄死にではないか?」
母を殺したことに罪がないと言われる事。


これほど悔しい事があるだろうか?


そんな思いが駆け巡った。


また心がきしむ。


心が歪む。


放心状態の我々と打って変わって、検察官は憤然とした趣だった。


「ありえない!こんな判決聞いたことがない!控訴だ!控訴しましょう!」
そう息巻いていた。
実際に1万件あったら数件程度のレベルの判決だったようだ。


正直私達にはもう気力がなかった。


控訴となると何年もかけて闘うことになる。


それでは身も心も持たない・・・
そうみんな思ったのだろう。
父が、「いえ、受け入れます・・・」とだけ言った。


同じ気持ちだった。


納得いかないどころではなかったが、これ以上闘うだけの精神力がなかった。


夕方、16時。


我々はそれぞれ家路につく。


やるせない思いを抱えながら。


数日後には退職、それと同時に新しい職場だ。


なんとかやっていこうと心を鼓舞し、自分を奮い立たせる。


私の病状はこの時から着実に悪化していくことになる。